Masuk結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。
本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。 「ご注文どうされますか?」 「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少し冷たかった。 私はコートの袖を引き寄せながら駅へ向かう。 スマホは静かなままだ。 悠斗から連絡はない。 別に珍しいことじゃない。 飲み会の日は、終電近くまで帰ってこないこともある。 私はそういうものだと思っていた。 でも今日は、妙に胸が空っぽだった。 家へ帰る。 暗い部屋。 私は電気をつけて、小さく息を吐いた。 「……疲れた」 最近そればっかりだ。 バッグを置き、ソファへ座る。 その瞬間、スマホが震えた。 私は反射的に手を伸ばす。 悠斗かもしれない。 でも違った。 母からだった。 『元気? 最近ちゃんと食べてる?』 私は思わず苦笑する。 三十を過ぎても、母はまだ私を心配する。 『食べてるよ』 返信すると、すぐ既読がついた。 『ならいいけど。真琴は無理するから』 その文字を見た瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。 無理。 私は無理なんてしてない。 たぶん。 『大丈夫』 そう送ろうとして、指が止まった。 ……大丈夫。 最近、その言葉ばっかり言ってる気がする。 疲れても。 寂しくても。 悲しくても。 全部。 『大丈夫』 私はスマホを握りしめる。 その時、不意に昔の記憶が蘇った。 高校生の頃。 熱を出した私に、母が何度も聞いてきた。 『本当に大丈夫?』 私はそのたび、『平気』って答えていた。 母は困った顔をして、『真琴は我慢しすぎる』と言った。 でも私は、困らせない子でいたかった。 手のかからない娘でいたかった。 だから自然と、『大丈夫』が癖になった。 寂しくても。 辛くても。 助けてほしくても。 笑って大丈夫って言う。 その方が相手を困らせないから。 私はソファへ深く沈み込む。 静かな部屋。 時計の音だけが聞こえる。 その時、玄関のドアが開いた。 思ったより早かった。 私は慌てて立ち上がる。 「おかえり」 「……ただいま」 悠斗は少し酔っていた。 でも思ったほどじゃない。 「早かったね」 「二軒目で帰った」 靴を脱ぎながら、悠斗はふうっと息を吐く。 「なんか疲れた」 「お水飲む?」 「あー、ほしい」 私はすぐキッチンへ向かう。 氷を入れて、水を注ぐ。 身体が勝手に動く。 「はい」 「ありがと」 悠斗は一気に飲み干した。 「生き返る」 その顔を見て、私はまた少し安心してしまう。 ……駄目だな。 私は心の中で苦笑する。 さっきまであんなに落ち込んでいたのに。 帰ってきてくれるだけで、全部どうでもよくなりそうになる。 「ご飯食べた?」 悠斗が聞く。 「うん。外で」 「へえ、珍しい」 「ラーメン」 「あ、いいな」 悠斗はネクタイを外しながら笑う。 「今度行こ」 その何気ない一言に、胸がきゅっとなる。 私は一瞬だけ期待してしまう。 本当に行けるのかな。 また今日みたいに流れたりしないかな。 でもそんなことを考えてる自分が嫌で、私は笑った。 「うん」 悠斗はソファへ座り、スマホを取り出す。 その時、通知画面が一瞬だけ見えた。 『秋山:今日はありがとです!』 私は視線を逸らす。 見なかったふりをする。 胸の奥がじわりと痛む。 でも。 「楽しかった?」 気づけば、また聞いていた。 悠斗は少し驚いた顔をする。 「飲み?」 「うん」 「まあ普通」 またその答え。 私は小さく笑う。 「そっか」 「真琴」 「ん?」 「なんか今日変じゃない?」 悠斗が不思議そうに私を見る。 私は一瞬だけ迷う。 今なら言えるかもしれない。 寂しかったって。 今日、一緒にご飯行けるの楽しみにしてたって。 でも。 喉の奥で言葉が止まる。 代わりに出てきたのは、いつもの言葉だった。 「……ううん。大丈夫」 その瞬間。 自分の胸の奥で、何かが静かに沈んでいく気がした。朝倉さんから小冊子の案内が届いて、最初の週末になった。 私は午前中に洗濯を済ませ、昼食を食べてから出かける支度を始めた。 書店へ行く。それだけなら、もう特別な外出ではない。仕事帰りにも休日にも何度か足を運んでいるし、店員さんとも顔見知りになった。以前は少し緊張していた入口も、今では自然に扉を開けられる。 それでも今日は、いつもより服を選ぶのに時間がかかった。 小冊子を買うだけなのだから、普段着で十分だと思う。けれど、もし朝倉さんに会えたらと考えると、少しだけ気に入った服で出かけたくなった。 クローゼットから淡いクリーム色のニットを出し、紺のスカートと合わせてみる。鏡の前に立つと、落ち着いた色合いが思ったよりしっくりきた。 私は小さなイヤリングをつけ、バッグを肩にかけた。 朝倉さんと会う約束をしているわけではない。でも、会えたら嬉しい。 最近は、その気持ちを無理に別の言葉へ置き換えなくなっていた。◇ 書店に着くと、入口近くの平台に小さな冊子が並んでいた。『棚の上で待つもの』 見慣れた写真が表紙になっている。 工房の棚に並ぶ器。窓から差し込む柔らかな光と、控えめに配置された文字。 スマホの画面で見るより、紙に印刷された写真は少し温かく感じられた。 私は一冊手に取った。 薄い冊子だったけれど、表紙にはさらりとした手触りがあり、ページを開くと写真と短い文章がゆったりと配置されている。 工房の作業台や乾燥を待つ器、焼き上がったばかりの鉢、窓辺に置かれたカップ。 どの写真にも、物が置かれている場所だけでなく、その前後に流れている時間が写っているようだった。 最後の方に、見覚えのある写真があった。 器が並ぶ棚。 工房で私が好きだと言った一枚だ。 その隣には、短い文章が添えられていた。『まだ使われていないものにも、そこへ至るまでの時間がある。これから誰かの暮らしへ向かうものを、未完成とは呼びたくない。』
朝倉さんと連絡先を交換してから、三日が経った。 その間、私は何度かスマホの連絡先一覧を開いた。 朝倉蓮。 きちんと登録されている名前を見て、少しだけ落ち着かない気持ちになる。 別に、何かを待っているわけではない。 朝倉さんは小冊子の正式な案内ができたら送ると言っていたし、それまでは特に連絡する用事もない。私から何か送らなければならない約束もしていなかった。 それなのに、スマホを開いた時、ふと名前を探してしまう。 そんな自分に気づくと、少し恥ずかしかった。 以前なら、こういう気持ちを持つこと自体に戸惑っていたと思う。 誰かからの連絡を楽しみにする。 何か話したいことが浮かぶ。 その人が今何をしているのだろうと、少しだけ考える。 そういう気持ちが、自分の生活を相手中心に戻してしまうのではないかと怖かった。 けれど、今は少し違う。 会社ではいつも通り仕事をしているし、帰れば夕飯を作る。先日買った副菜の本から新しい料理を試したり、週末の洗濯をいつ済ませようか考えたりもしている。 その中で時々、朝倉さんのことを思い出す。 今のところ、それくらいだった。◇◇◇◇ 木曜日の夜、私は丸いテーブルで夕飯を食べていた。 メニューは鶏肉ときのこの炒め物に、豆腐の味噌汁。淡い緑の小鉢には、昨日作ったにんじんのナムルを少しだけ入れてある。 副菜の本を参考にしたものだけれど、ごま油を入れすぎたらしく、思ったより香りが強くなってしまった。 それでも鶏肉の炒め物と一緒に食べると、案外ちょうどいい。 私は小鉢からにんじんを取りながら、次はもう少し細く切ってみようと考えていた。 その時、テーブルに置いていたスマホが震えた。 何気なく画面を見る。 そこに表示された名前に、箸を持つ手が止まった。『朝倉蓮』 私は一瞬だけ画面を見つめ、それから箸を置いた。 メッ
◆ 悠斗が一人で暮らすようになってから、台所の使い方は少しずつ変わっていた。 以前は料理をする場所というより、冷蔵庫から飲み物を取り出したり、真琴が用意してくれた食事を温めたりする場所だった。流しに食器が残っていても、翌朝には片づいているのが当たり前で、調味料がどこにあるかさえ曖昧だった。 今は違う。 仕事帰りにスーパーへ寄り、冷蔵庫の残り物を思い出しながら買い物をする。帰宅したら米を研ぎ、必要なら野菜を切る。食べ終えた皿は自分で洗い、翌朝のゴミ出しも忘れないように確認する。 どれも特別なことではない。 以前の真琴が、毎日していたことだった。 その事実を思い出すたびに、悠斗は自分がどれほど何も見ていなかったのかを実感する。 ただ、最近はそこから先の考え方が少し変わってきていた。 真琴は大変だった。 だから自分も家事を覚えなければならない。 最初は、そんな気持ちが強かった。 けれど、一人分の洗濯物を干し、夕飯を作り、散らかった部屋を片づける日々が続くうちに、ようやく分かってきたことがある。 これは反省のためにする作業ではない。 自分がここで暮らしていくために、必要なことなのだ。◇◇◇◇ その日の夕飯は、鶏肉と野菜の炒め物だった。 以前、高瀬から教えてもらった簡単なレシピを少し変えたもので、冷蔵庫に残っていたキャベツとしめじを使った。 鶏肉にはしっかり火が通っている。味つけも悪くない。 ただ、野菜から思った以上に水分が出て、少しべちゃっとしてしまった。「……まあ、食えるな」 悠斗は皿に盛りつけ、味噌汁と一緒にテーブルへ運んだ。 味噌汁には豆腐とわかめを入れてある。以前は味噌の量が分からず、薄すぎたり濃すぎたりしていたが、最近は計量スプーンを使わなくても、ある程度同じ味にできるようになった。 食べながら、ふとスマホに目が向く。 真琴に写真を送りたくなることは、今でもあった。
朝倉さんから預かった封筒は、しばらく丸いテーブルの上に置いていた。 もちろん、置きっぱなしにしていたわけではない。 何度か封筒に戻し、バッグに入れようとして、また出した。 写真カードを眺める。 二つ折りの紙を開く。『棚の上で待つもの』 その仮のタイトルを読むたびに、工房で見た棚の器を思い出した。 まだ誰の家にも行っていない器。 でも、寂しいわけではなく、静かに次の場所を待っているように見えた器。 あの日、私はその写真が好きだと言った。 朝倉さんは、それを覚えていてくれたのだろうか。 そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。 写真カードは、食器棚の青みの深皿と淡い緑の小鉢の近くに一度置いてみた。 並べてみると、少し不思議だった。 工房で見たもの。 書店で受け取ったもの。 私の部屋にあるもの。 別々の場所から来たはずなのに、静かにつながっている。 私はカードをしばらく眺めてから、封筒に戻した。 今度、朝倉さんに会えたら、ちゃんと自分で言おう。 ありがとうございました。 小鉢、使っています。 それから、写真カードも嬉しかったです。 何度か頭の中で言葉を並べてみる。 でも、準備しすぎると、かえって不自然になる気がした。 だから最後には、封筒をバッグに入れて、それ以上練習するのをやめた。◇◇◇◇ 週の半ば、仕事帰りに書店へ寄った。 朝倉さんがいるかどうかは分からない。 でも、カードのお礼を言いたい気持ちは、ちゃんと私の中にあった。 書店のドアを開けると、いつもの紙とインクの匂いがした。 掲示板には、新しい案内がいくつか増えている。 読書会。 地域の映画上映会。 小さな手作り市。 そこに、朝倉さんの小冊子の正式な案内はま
副菜の本を買ってから、私は何度かそのページを開いた。 にんじんのナムル。 きのこのマリネ。 豆腐の和え物。 どれも難しい料理ではない。 それでも、淡い緑の小鉢に入れることを考えながら見ると、少しだけ楽しくなる。 週末には、きのこのマリネを作ってみた。 酢を少し入れすぎた気がする。 でも、冷蔵庫で少し置いたら味が馴染んで、思っていたより悪くなかった。 小鉢に入れると、量もちょうどいい。 食卓の端に置いたそれを見ながら、私はまた少し笑った。 前なら、失敗したかどうかだけを気にしていた。 今は違う。 次はもう少し酢を減らそう。 しめじだけでなく、舞茸も入れてみよう。 そう考える時間まで、少し楽しい。 小鉢はもう、食器棚で特別扱いされなくなってきていた。 朝、自然に手に取る。 夜、少し残ったものを入れる。 洗って、拭いて、また棚へ戻す。 その繰り返しの中で、少しずつ私の器になっていく。◇◇◇◇ その日の仕事帰り、私はまた書店へ寄った。 朝倉さんに会えるかもしれない。 小冊子の案内が出ているかもしれない。 そういう気持ちはあった。 けれど、今日はそれだけではない。 副菜の本の隣にあった料理エッセイが気になっていたし、掲示板の読書会案内も少し見てみたかった。 書店のドアを開けると、いつもの紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、季節の本が並んでいる。 私はまず掲示板を見た。 読書会の案内。 地元作家のトークイベント。 手作り市。 小冊子の案内は、まだなかった。 少しだけ残念に思う。 でも、その残念さに足を引っ張られるほどではない。 私は暮らしの棚へ向かった。 棚の前で料理
小鉢を使った朝から、数日が経った。 私はその間にも、何度か小鉢を使った。 おひたし。 冷奴。 少しだけ残ったかぼちゃの煮物。 最初は少し緊張しながら手に取っていたけれど、三回目にはもう、食器棚から自然に出せるようになっていた。 淡い緑の小鉢は、青みのある深皿の隣で、前からそこにあったみたいな顔をしている。 もちろん、前からあったわけではない。 工房で選んで、包んでもらって、電車に乗って、パンと花と一緒に部屋へ持ち帰った。 それなのに、使い始めると少しずつ「特別な新入り」ではなくなっていく。 それが少し嬉しかった。 食器棚を開けるたびに、私は朝倉さんの言葉を思い出す。 迷う時間も、たぶん器を選ぶ時間の一部です。 あの時、私は迷って、考えて、自分で選んだ。 だからだろうか。 使うたびに、その迷った時間まで一緒に食卓へ出てくるような気がした。◇◇◇◇ その日の仕事帰り、私は書店の前で足を止めた。 工房へ行ってから、まだ朝倉さんには会っていない。 作家さんにも、小鉢を使った感想は話せていない。 でも、話したいことはもうある。 おひたしを入れたこと。 少し醤油が強かったこと。 主役ではないけれど、あると食卓が落ち着いたこと。 冷奴を入れたらちょうどよかったこと。 使うたびに、棚の中での場所が少しずつ自然になっていくこと。 そういう小さな話が、私の中に溜まっていた。 書店の掲示板には、もう工房販売会の案内はなかった。 代わりに、新しい読書会の案内と、地元作家のトークイベントのチラシが貼られている。 朝倉さんの名前はない。 それでも私は、店の中へ入った。 会えるかもしれない。 会えないかもしれない。 そのどちらでも、今日は少し本を見たかった。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。